お通夜のお灯明


お通夜のお灯明を一晩中つけっぱなしておく理由。


お通夜の夜には、故人の枕もとや祭壇に供えた灯明を一晩中つけておくというしきたりがあります。


親族が交代で起きて、ろうそくの火を見守り、短くなったろうそくを交換するわけです。


このしきたりが生まれたのは、死者の周辺を照らす灯明が消えてしまうと、すかさず魔物が故人にとりついて、成仏できなくなってしまうと信じられていたからです。


そのため、通夜の夜には火を絶やさないように大勢の人間が不寝番をつとめたもので、もし子どもが親の灯明を絶やしたら、そんな親不孝なことはないといわれました。

お灯明 2


人間どうしでも息を吹きかけるのは、けっして行儀のいい行為ではない。


まして、口は不浄なものも食べ、かつ飲み、そしてときには悪口を発するところでもあります。


そんな不浄な口で仏様に息をかけるのは、つばを吐きかけるのと同じことだと昔の人は考えたのです。


また、息を吹きかけると、お灯明などの神聖な火そのものがけがれるという考え方もありました。


そもそも人の死にさいして火を焚くのは、家中を清めるという考えがあったのです。


そこで、線香の火を吹き消すようなことにならないため、炎が大きくならないように火をつける方法を知っておきたい。


まず、線香をもつ手をろうそくの炎より下になるようにする。


そして、ろうそくの炎の先のほうではなく、横の部分をつかって火をつける。


こうするとお線香が大きく燃えあがることはない。

お灯明 1


お灯明は、なぜ息で吹き消しちゃいけないのか。


お灯明や線香の火は、息で吹き消してはいけないといわれる。


火をつけるためにつかったマッチの火も、吹き消してはいけない。


いずれも、手でかるくあおぐようにして、風をおこして消すのが昔からの作法です。


線香を上下に振って消す人もいるが、これも不作法な行為。


火が飛び散って、ご先祖様がやけどするといって嫌われた。


息で吹き消すのが不作法とされるのは、神様や仏様に息を吹きかけることになると考えられてきたためです。

「売家」「貸家」の張り紙 2


別の説としては、借り主が入るようにと願いをこめて、「入」という字の第二画をあらわす意味で、標示をななめに貼ったともいわれています。


江戸時代の川柳に、「売家と唐様で書く三代目」とある。


初代が苦労に苦労を重ねて建てた家を、三代目のぐうたら息子が手放す様子を詠んだものです。


唐様とは、中国風の書体、つまり漢字のことです。


ひらがなの読み書きもできない人が多かった時代に、三代目は漢字で書いた。


教育だけは人並み以上に受けていたのに・・・という皮肉とユーモアがこめられていました。


現在は、高すぎる相続税をはらえずに一等地の自宅を泣く泣く手放す人も多いが、当時、立派な屋敷を手放すのはたいてい遊び人の放蕩息子だった。

「売家」「貸家」の張り紙 1


空き家に「売家」「貸家」の張り紙を、最近はめったにみなくなりました。


いまは不動産屋を介して物件を探すのが一般的だが、大正時代ごろまでは、家の持ち主が、自分で「売家」「貸家」の標示を貼ったものだった。


その標示はななめに貼るものだった。


玄関先に「売家」「貸家」と墨で書かれた紙が、ななめに貼られていたのです。


まっすぐ貼らなかったのは、単純にそのほうが人目につきやすいからという理由。


江戸時代にはじめたのが、その後も、そのまま習慣になったようだ。

玄関の履物

玄関の履物を「出船」の形にする理由。


禅寺の上がり口などに、「脚下照顧」という書き付けがしてあることがあります。


直接的には「足元に気をつけよ」という意味だが、「履物のあつかいが人柄を決める」と教える意味もあります。


上がり口で履物をぬぐ日本では、昔から履物のあつかいに気をつかった。


ぬいだ履物を反対向き、出船の形に直すのは、室町時代以降、茶道の礼法として広まったものです。


もっとも、平安時代の肖像画などをみても、天皇や名僧の履物をきちんとそろえてあります。


そのころから、脱いだ履物は履きやすいように、出船の形にそろえておく習慣があっ光ようだ。


また、武家社会でも、履物は出船の形にそろえるのが作法になりました。


いざというとき、すぐに履けるという配慮からです。


これらの作法が、室町時代、茶道にも取り入れられ、礼法として定められました。


茶道では、にじり口から茶室へ入るとき、いったん履物を脱いで、そのまま茶室に入る。


相手におしりを向けないように、ややななめの姿勢でしゃがみ、あらためて履物を出船の形にそろえるというものです。


江戸時代には、料理屋の玄関やお屋敷に、この礼法が広まり、やがて一般家庭にも広まっていったのです。


母なる川 6

前回の続きです。


花火大会やレガッタが復活し、船遊びや桜見物も盛んになりました。


歩行者専用の桜橋や、その周辺の親水堤への改造例のように、今や再び人が水辺に接近する試みが始まった。


アメニティのあるまちづくりを求めて、市民の知恵は、これからますます川に注がれるでしょう。


二つのアピール隅田川再生のために都市の中の川のあるべき姿を追求するためには、まちづくりの活動に、市民が積極的に参画しなければなりません。

母なる川 5

震災後の復興事業で多くの歴史的な橋が架けられましたが、殖産興業による大企業の進出によって、水の汚れは進みました。


そして、戦後の高度経済成長期を迎えると、工場排水のたれ流しによって、隅田川とその支川の水質汚濁は、最悪期を迎えました。


また、工場の地下水くみ上げによる江東デルタの地盤沈下、高潮災害対策のためのカミソリ堤防、都心の交通緩和策の首都高速道路などによって、隅田川へのアクセスは遮断されました。


しかし、近年、物質を優先しすぎた反省から、快適な生活環境を回復する努力がなされ、公害を規制した結果、徐々にではあるが改善の方向性が生まれてきました。

母なる川 4

明治維新を迎え、日本が近代化を目標に工業国へと転換するとき、水運と労働力に恵まれていた隅田川沿岸は、急激に工場地帯に変貌し、公害問題が発生する。


しかし、明治・大正の隅田川は、レガッタや水泳を楽しみ、白魚やシジミが採れる水質であり、ポンポン船が往来する、のどかな風情が残っていました。


武島羽衣作詩、瀧廉太郎作曲の「花」の表現にみられたような、大衆の心を満たしてきた隅田川は、関東大震災と第二次世界大戦を契機に、急激な変化を余儀なくされました。

母なる川 3

東日本の交通体系のなかで、隅田川が江戸湊とともに重要な位置をしめてくる。


しかし、隅田川が本格的に歴史の舞台に登場するのは、1590(天正18)年、徳川家康が江戸城に入って以後のことです。


江戸市街の建設が一段落したとき、明暦の大火(振袖火事)にみまわれ、幕府は、隅田川左岸の本所・深川のまちづくりに着手、両国橋を架ける。


これによって下総国(千葉県)への往来が盛んとなり、両国橋の界隈は、浅草寺境内とならび江戸随一の盛り場に発展します。


川開きの花火や燈籠流し、屋形船の船遊びなど、さまざまなイベントが大衆の心をとらえました。


また、市街地開発によって縦横にはりめぐらされた運河によって、当時、世界一の人口をかかえた大消費都市の経済が支えられました。


文化・文政の頃になると、江戸文化を代表する文人墨客が、隅田川沿岸で活躍し、庶民は、墨堤の桜に興じました。

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